広々とした玉座の間は、にわかにザワついてくる。
重臣たちの表情は二通りに割れていた。微笑を浮かべるドリーブ派と、険しい顔をするディリアス派(伝統派)に。
昨夜の会議においても、伝統を重んじるディリアス派は王女の政略結婚には極めて慎重だった。一方でドリーブ派は、使える手段は何でも使うべきという姿勢だった。
両派とも、対立するのは今に始まったことではない。もはや国王の権力が衰退してしまったこの国では、力のある閣僚同士の争いの勝者が、国家運営を決定付けていた。
「もう解散だ!」
たまりかねたディリアスが手を挙げて閉会宣言を告げた。閣僚とはいえ、今のディリアスは国王代理。客観的にも実質的にもドリーブよりも立場が上だ。
それでも臣下の者たちは動こうとしなかった。ドリーブの提案に興味を示さざるを得ないのだ。現在の国の窮状は誰もがよくわかっている。王女の政略結婚が、現状を打破する有効な手段であることは否定できない。
「ドリーブ侯!具体的にどのように実現するのですか!?」
しまいにはそんな声までもが飛んできた。
「五百年間の眠りから覚めた唯一の正統なる王女殿下を、友好国とはいえ他国の王子と結婚させるなど許されるのですか!?」
ディリアス派からも声が上がる。これを皮切りに場内は騒然となった。
当のリザレリスは「政略結婚ってマジバナだったのか?」とディリアスに詰め寄る。
「王女殿下。違うのです」ディリアスは否定するが、もはや彼にも場を抑えられない状況になっていた。
策略通りのドリーブは、王女殿下の面前で勝ち誇った顔で立ち上がり、振り返った。そして紛糾する玉座の間にいる全員に向かい、大演説をぶつ。
「ディリアス公をはじめとした伝統派は、王女殿下の政略結婚には反対です。わかります。わかりますよ。私にも我が国の伝統を重んじる心は当然あります。どんなに国が衰退しても、守らなければならないモノというのは必ずあります。外交を担うものとして他国へ訪問する機会の多い私だからこそ思います」
巧妙なドリーブは、決してディリアス派を真っ向から否定も批判もしない言い方を心得ていた。よく言えば相手の尊重であり、悪く言えばズル賢い。
「しかし皆さん。よくよく考えてみてください。我が国の建国の歴史を。そもそも我が国は、当時のウィーンクルム王女と婚姻を結んだヴェスペリオ・リヒャルト・ブラッドヘルム王によって建国されたのです。そして今、我々の目の前におわします美しい御方は、リザレリス・メアリー・ブラッドヘルム王女殿下。初代国王の血を引く正統なるプリセンス。その王女殿下が、ウィーンクルム王子と婚姻を結ぶことは、我が国の伝統に全く反しないことと存じます!」
完璧な論理だった。ディリアスをはじめ伝統派の重臣の誰もが、ドリーブに反論することはできなかった。
まもなく、この場にいる過半数の者たちから拍手が沸き起こったのは必然だと言える。ディリアス派=伝統派の者たちの多くも、首肯せざるを得なかったのである。
「ドリーブ侯!」「素晴らしい!」「もはや疑問を差し挟む余地はないではないか!」
ドリーブは満足そうな笑顔を浮かべ、自分が王のごとく鷹揚に手を挙げて応じる。
「な、なあ、俺...わたし、王子と結婚しなくちゃいけないのか?」
ひたすら戸惑うリザレリスはディリアスの袖を引っ張る。
「まだ、そうなると決まったわけではありません」ディリアスは奥歯を噛み締めた。
不敬にもドリーブは、国家のためという大義名分のもと、王女を政争の道具に利用しようとしている。ドリーブの思惑通りに事が進めば、彼の求心力はさらに増大し、政治的力学によりディリアスが追い落とされるのは明白。くわえて当の王女は、記憶喪失の心もとない乙女。実質的にはドリーブが最大権力を握るのは火を見るより明らかだ。
「ドリーブ卿め......」
ディリアスは、不安そうに自分を見つめてくるリザレリスが、不憫でならなかった。
五百年間の眠りから覚めてみれば記憶を失っていて、自らの意志とは関係なく政略結婚させられる。いくら国家のためとはいえ、父である初代国王が見たらどう思うだろうか。母であるロザーリエ王妃はどう思うだろうかーー。
「ブラッドヘルム王女殿下とウィーンクルム王子の未来の結婚に祝福を!」
ついにはドリーブ派の重臣のひとりがそう叫び出した。リザレリスの気も知らずに、城内の盛り上がりは最高潮に達した。
【4】リザレリス王女とウィーンクルム王子の結婚の話題は、まるで既成事実かのように国中へ広がっていってしまった。ドリーブはマスコミにも強いパイプを持っている。彼の息のかかった新聞記者たちが動いたに違いない。「このような事態になり、大変申し訳ございませんでした」夕陽が射しこむ王女の自室で、ディリアスはリザレリスに深い謝罪を示した。これは完全に失態。ドリーブにいいように出し抜かれてしまった。頭を垂れながらディリアスは歯ぎしりを抑えられない。このような状況になってしまった以上、表立って政略結婚に反対することも難しくなってしまった。ここでディリアスが反対意見を表明した場合、ドリーブの張る論陣はこうだろう。「ディリアス公は自身の権力が揺らぐのを恐れて王女殿下の結婚に反対している。国家の窮乏も顧みず、己の権力欲のためだけに」実に巧妙で狡猾。ディリアスは追い詰められているのだった。しかもドリーブの、政略結婚を正当化する理論自体は間違ってもいない。王女殿下が目覚めてから僅かの間によく練り上げて実行したなと、ディリアスは感心すらしていた。事実、思想信条や人格は別にして、ドリーブは極め
翌日のよく晴れた午後。リザレリスは城門を抜け、街へ飛び出した。昨日の今日で城は何かと騒がしかったが、ディリアスのおかげでこっそりと抜け出すことに成功した。ディリアスいわく、城にいてドリーブ派に接触されるよりは、いっそ外出するのは良い方法かもしれないとのこと。質素な服(といっても小洒落た町娘ぐらいのレベル)に着替え、古風なボンネット帽子を被ったリザレリスは、子どものようにはしゃぐ。「へ〜これがブラッドヘルムの街か〜」王女に転生してから初めての外出。リザレリスはここぞとばかりに異世界というものを満喫できると胸を踊らせていた。もちろん政略結婚の話は気になっていた。しかしこういう時だからこそ外で遊んで気を晴らすのが一番。そう思って彼女は羽を伸ばそうとしているのだ。「城も雰囲気あっていいんだけどさ。なーんか息苦しいっていうか、のびのびできないんだよね」リザレリスは、街の中心街の通りに軒を連ねる店々を興味津々に眺めた。まるで旧時代の、西洋の城下町に旅行にでも来たような気分になり、俄然テンションが上がってくる。ところがだった。 「なんか、やけに人が少ないような?」街の中心部の商店街のはずなのに、閑散としていた。よく見れば、閉まっている店も多い。「定休日なのかな」と呟きながらも、リザレリスの頭の中にはひとつのワードが浮かんでくる。「シャッター街......」だが、せっかく来たのだから楽しまないともったいない。シャッター街ぐらいどこにだってあるだろ。リザレリスは持ち前のテキトーさで気持ちを切り替え、どこか面白そうな店はないかと進んでいった。「おっ、あそこ、なんか気になるかも」ある雑貨屋を見つけ、リザレリスは小走りになると、ふと店前で立ち止まった。それから一歩遅れてきたエミルへ振り返る。彼女の顔は何か言いたげだった。「王女殿下?」「エミルももっと楽しめよ」「私はあくまで王女殿下の護衛です。私などには気にせず楽しんでください」真面目なエミルは微笑み返しながらも仕事の姿勢を崩さない。リザレリスは、ぶぅーっと口を尖らせる。「城では上司もいるからしょうがないだろうけどさ。ここでは他に誰もいないんだしいいじゃん」 「そういうわけには参りません。貴女は王女殿下で私は護衛です」「その、王女殿下ってのもやめてくんないかな。なーんかやりづらんだよなぁ」「それ
入店すると、自然とウキウキしてきたリザレリスは、きょろきょろと店内を見まわした。でもすぐに「あ......」となった。「なあ、エミル」「どうしましたか?」「なんというか、あれだな」 昼間なのに薄暗い店内。埃の被った棚と品々。店の奥に控える店主のオヤジは、座ったままリザレリスたちへ一瞥をくれてから、退屈そうに手元の新聞へ視線を落とした。「ずいぶんと陰気くさいな」思わずそんな言葉が口からついて出てしまったリザレリスだったが、合点がいく。これがディリアスの言っていた「国の窮状」の一端なんだと。「そうだよなぁ」と店主のオヤジが不機嫌そうに口をひらいた。「たしかに陰気くせーよな。以前はまあまあ繁盛してたんだがな」「申し訳ございません。悪気はないのです」エミルが一歩前に出て、リザレリスの代わりに謝罪する。「べつにいい。事実だからな。一時期は〔ウィーンクルム〕からの観光客で溢れ返ったことだってあるんだ」「へぇー、インバウンドってやつか」とリザレリス。「ところが今じゃこの有り様だ。親父の代から続けてきたが、このままじゃ店を畳むことになるぜ」店主のオヤジは新聞をぐしゃぐしゃにしながら吐き棄てた。「そうなんだ......」何を思ったか、リザレリスは陰気な店主につかつかと歩み寄っていく。「リザさま?」心配顔を浮かべてエミルも付き添っていく。「なんだ?嬢ちゃん」店主のオヤジはやさぐれた眼つきで睨みつけてきた。リザレリスはボンネット帽子の下から可憐な顔を覗かせて切り出す。「ひょっとしたら、この辺りの店は全部そんな感じなのか?」「だろうな。それでも開いてる店はまだマシだ。何とか生き残ってるわけだからな。まあでも、地方に行きゃーもっと酷いだろう」「どこもかしこも景気が悪いってことなのか」「一部の金持ち以外はみーんな不況さ。これで〔ウィーンクルム〕との国交が絶たれちまったら、おれたち庶民はマジでどうなるかわかんねえ」「そんなに〔ウィーンクルム〕との国交って大事なんだな」「当たりめーだろ。輸入に輸出に観光に、一体どれだけの影響があると思ってんだ。世間知らずの嬢ちゃんだな」「なるほど。ディリアスやドリーブが言ってたことの実態はこういうことだったんだな」腕組みをしてうんうんと頷くリザレリスを見ながら、ふと店主のオヤジが何かを閃いた顔をする。 「嬢ちゃん
「おっちゃん。これはなんだ?」不意にリザレリスが、ある品物を手に取った。それは不思議な薄青色の石を添えたストーンリングだった。「おっ、嬢ちゃん。見る目があるじゃねえか」「なんか特別な指輪なのか?」「それは魔法の指輪だ」「魔法の?」「そうだ」店主のオヤジはニヤリとする。「なかなか手に入らねーんだぜ?」「これでなにができるんだ?」「それは氷のリング。つまり、そいつを使えば強力な氷魔法が使えるってわけだ」「マジか!」「買ってくか?」「欲しい欲しい!」「でも嬢ちゃんは魔法を使えんのか?そんな感じには見えねえが」「えっ、誰でもいいってわけじゃないの?」「魔力持ちの魔法が使える奴じゃないと意味ないんだよそいつは」「魔法ならエミルが使えるぞ」リザレリスはエミルへ視線を投げる。「ほう。にーちゃんは魔法が使えんのか?」「多少は、心得はありますが」エミルは控えめに答えた。そこへリザレリスが即ツッコむ。「多少なんてもんじゃねーじゃん!おっちゃん、こいつはマジでスゲーんだぜ?」「ずいぶんと若いのに、にーちゃんは魔導師なのか?」「まあ、最低限の訓練は受けました」「なあエミル。これ買ってさ、氷の魔法をわたしに見せてくれよ」リザレリスは笑って言ったが、本音だった。二日前にエミルの魔法による凄まじい動きを見せられてから、魔法に興味を持ち始めていたのだ。「かしこまりました。リザさまがご所望ならば」王女殿下が喜ぶならばと、エミルは承諾した。そうしてエミルが店主と売買の手続きを開始しようとした時だった。「おっ、なんだよ。ここもシケてんなぁ」と突然、他の客が店に入ってきた。こんな雑貨屋には到底ふさわしくない、やけにスラっとした背の高い黒髪の美男子だった。身なりも実にきちんとしていて、どこかの貴族の子息かと思われる。歳はエミルよりもやや上だろうか。 「おい店主」黒髪の美男子は店主のオヤジを見つけるなりズカズカと三人へ近づいてきた。「お客さん。申し訳ねえけど今はこっちのお客さんの相手をしててね」店主はエミルから代金を受け取るところだった。「おっ、それって、魔法のリングか?」男は会計カウンターに置かれた指輪に視線を落とした。「よくわかったな。今からこちらのお二人さんが買ってくんだ」「その石の感じだと、氷のリングだろ」「あんた、魔導師なのか?
「なんだか楽しそうだね〜」金髪の美男子はニコニコしながらリザレリスたちに歩み寄ってきた。「えっ、おまえの兄貴なの?」リザレリスが訊ねると、黒髪の美男子はうんざりした顔で頷いた。「ああそうだよ」「そうです。僕は彼の兄です。素敵なお嬢さま」金髪の美男子はリザレリスに上品な笑顔を向けた。 「そ、そうなんだ」思わずリザレリスは彼の顔に見入ってしまう。黒髪の男に負けず劣らずの美男子。だがこちらの男の方はもっと優雅な気品があり、自然な余裕に満ちあふれている。細長いまつ毛の間からのぞく怜悧な目には、アンティークゴールドの瞳が上品な輝きを放っている。まるでどこぞの超イケメン坊っちゃんだ。これは普通の女だったらソッコーで落ちるだろうなと、リザレリスは前世の人格から本気で思った。「ん?僕の顔になにかついているのかな?」不意に金髪の美男子がリザレリスの顔を覗き込んできた。「い、いや、なんでもない」リザレリスは後ず
【5】城に戻るなり、リザレリスはエミルを連れてディリアスの執務室に押しかけた。先ほど考えたことを伝えるためだ。「本当に、よろしいのですか?」王女の提言を受け、ディリアスは一驚し、確認を求めた。「だって別に、ここまで贅沢しなくたって生きていけんだろ?」リザレリスはふんと鼻を鳴らす。「承知しました。ではそのようにいたします。国民の心がよくおわかりになる、親愛なる王女殿下」ディリアスは深々とお辞儀をした。それは忠誠心だけではない、心の底からの感謝の念がこもっていた。さらにその感謝から、さらなる忠誠が形成されていくようだった。リザレリスの斜め後ろに控えるエミルも、ディリアスと同様の想いでお辞儀をしていた。「そ、そこまで言われることでもねーし」何となく気恥ずかしくなったリザレリスは腕組みして視線を逸らした。彼女の提言とは何だったのか?それは城での暮らし向きについてのことだった。ここまでの贅沢は必要ないし、なんだったら一般国民と同じぐらいの普通の生活でもいい。リザレリスはそう伝えたのだ。「あっ、でもやっぱりご飯は、それなりに美味しいものは食べたいかな〜」言ってから急に惜しくなったのか、リザレリスは頭をポリポリ掻きながら潔くないことも口にした。彼女のその決まりきらない感じは、むしろディリアスとエミルの好感の笑いを誘った。そんな時だった。突然あわただしく部屋のドアがノックされた。何かと思いディリアスは思考を巡らせるが、すぐにエミルに目配せをしてドアを開けさせた。「ディリアス公!」入ってきたのは小太りの重臣、ドリーブとその部下だった。「なんだ、騒がしいな。一体どうした?」ディリアスが応じるとドリーブは、彼の前に立っている若い女に気づいて怪訝な目を向けた。女はボンネット帽子を脱いで反応する。王女の可憐な顔が露わになった。「なんだよ」「こ、これは、王女殿下!」「いいからいいから。それよりなんかあったの?「そ、それが、実は......」と部下の方が言いさした時。「まったくなぜそんな重要な情報を掴めなかったんだ!」ドリーブが部下を怒鳴りつけた。「も、申し訳ございません」「使えないヤツだ。この馬鹿が。よりにもよってなぜこのタイミングで......くそっ!」ドリーブは王女の面前で口汚く部下を罵しった。明らかに何かがあったことを示している。リ
「ウィーンクルム王子がお忍びでブラッドヘルムに来ていた、ですか......」話を終えたドリーブが退室し、三人だけとなった部屋で、エミルはため息をつくように言った。「てゆーかさ」と、事の重大さを理解していないリザレリスは背もたれに体を預けながらのん気に言う。「それのなにが問題なんだ?」エミルの目が点になるが、ディリアスは半ば感心したように軽く吐息をつく。「さすが王女殿下は大物ですね。確かにこうなってしまった以上、焦っても仕方ありません」「だって王様が来たわけじゃないんだろ?」リザレリスはあっさり言ってのける。彼女は深く考えていない。「王子が来たぐらいでさ」「おっしゃるとおりです。しかもお忍びということは非公式ということ。ただ、問題はタイミングなんです」「タイミング?......あっ」「気づかれましたか?」「俺...じゃなくて、わたしと王子の結婚が話題になってたんだ!」やっと理解したリザリレス。「だからその話をぶち上げたドリーブのおっさんが焦りまくってたのか」「さようでございます。もしウィーンクルム王子の機嫌を損ねることになり国交関係にも影響を及ぼすことにでもなれば、ドリーブ卿の政治生命にも関わることになります」「ということは」リザレリスは閃いたようにぽんと手を叩く。「ディリアスの立場はむしろ安泰になって良いじゃん」「いえ。私の立場の問題などは、国家の問題に比べれば瑣末なことに過ぎません」ディリアスは神妙に言う。「〔ウィーンクルム〕との国交関係が悪くなることは、国益に反します。それは由々しき問題です」にわかに部屋の空気が重くなる。さすがのリザレリスも、肘掛けに肘を置いて頬杖をつき、難しい顔をする。エミルは床を見つめて何かを考えていたが、ふと思い出したように口をひらいた。「ディリアス様」「どうした?」「ウィーンクルム王子のお名前を、改めてお伺いしてもよろしいですか?」「長男がフェリックス・ヴォーン・ラザーフォード。次男がレイナード・ヴォーン・ラザーフォード。その下がフレデリック・ヴォーン・ラザーフォード」ディリアスの返答に、リザレリスとエミルは、やおら顔を見合わせる。「ま、まさか......」次の瞬間だった。また部屋の扉が慌ただしくノックされた。ノック音のテンポと強さから、先ほどよりも深刻さが感じられる。なにか急ぎの用であろうか。
国賓用の豪華な応接間に、ディリアスが王子ふたりを迎え入れた頃。エミルの監視の下、リザレリスは自室で大人しくすることを余儀なくされていた。幸い侍女のルイーズが所用で席を外しているのをいいことに、リザレリスはぶつぶつとボヤく。「レイナード王子って、本当にあの黒髪のクソイケメンなのかなぁ?だとしたら文句言ってやりてー」ここで急にリザレリスは「あっ」となって、すっくと立ち上がった。 「リザさま?」「なあエミル。確かめに行こーぜ?」「確かめる、ですか」「だから本当に雑貨屋であったアイツらが王子なのかどうかを確かめに行くんだよ」「しかし、ディリアス様には会談が終わるまでは部屋から出ないようにとの指示が...」「だからさ。こっそり覗きにいってみよーぜ?」「の、のぞきにですか?それは......」当然ながらエミルは賛同しない。そんなエミルを見て、リザレリスはニヤリとする。
【9】王子ふたりが来訪してからしばらくの間に、リザレリスを取り巻く状況は変化していた。まず、ドリーブの策略によって危ぶまれたディリアスの地位は、以前にも増して安泰した。これはリザレリスにとっても好ましい状況変化といえる。「この度は、誠にありがとうございました......」ディリアスに深々とお辞儀をするドリーブのタヌキ面は、悔しさに満ちたものだった。結果として、ディリアスがドリーブの失策を挽回した形となったからだ。ディリアスがフェリックス王子と王女留学の話をまとめたことにより、ドリーブも救われた格好となったのである。もちろんドリーブ自身リスクは重々承知していた。失敗に終わったこと自体は素直に受け入れている。要するに、政治生命を救われたとはいえ、ディリアスに借りを作ってしまったことが不本意でならないのだ。「し、失礼いたしました......」奥歯を噛み締めてドリーブが部屋から辞去していくと、ディリアスは吐息をついた。「ドリーブ卿は、一番の政敵である私に借りを作ってしまって悔しいだろうな」「これで大人しくなってくれればいいですね」何の他意もなく部下が言うと
【8】城を後にした王子たちは、早々に帰国の途についていた。島国の〔ブラッドヘルム〕の港から、〔ウィーンクルム〕の港までは、船でニ時間あまりを要する。すでに夜だったが〔ウィーンクルム〕が誇る魔導式船舶であれば何も問題はない。だからフェリックスの意見で少しでも帰国を早めたのだった。誰もウィーンクルムとブラッドヘルムを行き来する商船に、王子二人が乗っているとは思いもしないだろう。入国も出国も、いずれもフェリックスの指示で、部下のグレグソンが手配した。第一王子にとって、お忍びでブラッドヘルムを行き来することは容易かったのである。「つーかよ」王子用に用意された客室の中、レイナードは正面に座るフェリックスへ切り出した。「マジで兄貴は何がしたいんだ?」弟の顔には当惑の色が浮かんでいた。兄はふっと頬を緩めて、穏やかに微笑む。「ディリアス様とお話したことがすべてだよ?」「どうせ俺に説明してもわからねーってことか」ふんっと弟は腕を組んで顔を背けた。「物事にはタイミングというものがあるからね」とフェリックス。
「驚かせてしまったようだね」フェリックス王子は、そのままゆっくりと階段を降りてくると、リザレリスを丁重におろした。「ケガはないかい?」「あ、ありがと」さすがのお転婆プリンセスも、しおらしく素直に感謝する。「これはフェリックス王子に一本取られたな。エミル」遅れてディリアスが彼らのもとへ歩いてきた。はたとしたエミルは、即座にフェリックスへ向けて跪く。「た、大変申し訳ございませんでした」「いやいや、悪いのは僕だから。君の動きがあまりに素晴らしかったからね」「い、いえ」頭を垂れたままのエミル。「フェリックス王子は有数の魔導師でもあるんだ」ディリアスが言った。それからディリアスは、侍女姿のリザレリスに視線を移すと、どうしたもんかと考える。フェリックス王子は、彼女が王女だと気づいているのだろうか?気づいていないのなら、このままやり過ごすこともできるが......。そこへディリアスの方針を固める出来事が起
ドリーブは疑問を浮かべ、エミルの耳元へ口を寄せる。「ど、どういうことなんだ?」「これにはちょっとした経緯がありまして......とにかく、王女殿下だということはバレていないようです」エミルの返答に、ドリーブは希望を取り戻し、顔色も取り戻した。「そ、そうか。レイナード王子は、ただの侍女だと思っているということだな」「はい。それはそれでまた別の問題がありますが」「確かに......」 一国の王子が他国の侍女に指を突きつけられているなど、ありえないことだ。ドリーブはひやひやしながら王子と侍女を見守る。「ったく、ここじゃ侍女の教育もままなっていねーのか?」「そんなことより、指輪を渡せよ!」「なーんでこの俺がお前に渡さなきゃならねーんだ。買ったのは俺だ」「割り込んだのおまえだ!」「メンドクセー女だな」「あんだ
「では、私たちも参りましょう」エミルがそう言って、ドリーブを先頭に三人が部屋を出ようとした時だった。「おっと、これはドリーブ侯」ちょうど廊下から応接室へ入って来ようとした者とかち合った。思わずドリーブはびくっとしたが、王子ではなかった。執事風の年配男性だ。「な、なんだ。グレグソン卿、貴兄か」「失礼しました。部屋には誰もいらっしゃらないと思っておりましたので」グレグソンという名の年配男性は、ドリーブに会釈してから、後ろのふたりへ視線をやる。エミルはグレグソンの顔を見るなり頭の中の記憶をたどる。会ったことがあるような気がしたからだ。「あっ」エミルは思い出した。グレグソンは、雑貨屋にあの兄弟を迎えに来た男だ。「どうした?」リザレリスがのん気にエミルへ声をかける。「知り合いなのか?」「リザさま。こちらの方は...」とエミルが伝えようとしたが、一歩遅かった。「ったく、兄貴のヤツ。わざわざ部屋まで行って待たされてまで王女様の顔見てどうすんだっての。さすがに付き合いきれねえ」
「そこで何をやっている!」エミルに気づくなり、その者はドカドカと部屋までやってきた。狡猾なタヌキ面に怒りを浮かべて。「ど、ドリーブ様」「お前がなんでそこにいる!会談中ではないのか?」「いえ、中には誰も......」「いないのか?」はい、と頷くエミルを押しのけてドリーブは中に入る。すると彼の視界に飛び込んできたのは、場違いにソファーへ深々と体を預けている侍女だった。「なっ!お前は侍女のくせにそこで何をしている!」ドリーブが声を荒げた。当然だ。特別な来客用の高級椅子に侍女が悠々と身を任せているなど、ありえない。「なんだよ、うっせーな。ドリーブのおっさんか」リザレリスは悪びれることなくドリーブを睨んだ。自分が王女であることを隠すために変装していることも忘れて。「このわたしに向かって侍女ごときが何だその口の効き方は!......ん?」怒鳴りながら侍女へ近づいていき、ドリーブは気づいた。「そのお声とお顔......お、王女殿下!」「そうですけどなにか?」リザレリスはムスっとして訊き返す。相変わらず太々しい王女相手に物を言うのは気が引けたのだろう。「た、大変失礼しました」ドリーブはお辞儀をしてから、即座にきびすを返してエミルに歩み寄っていく。「お、おい。なんで王女殿下がここにいる。床に伏せていることにしてやり過ごすんじゃなかったのか?」「はい。しかし、王女殿下が......」「だ、だからと言って、王子たちと出くわしてしまったらどうするんだ!」ドリーブは必死だった。それはそうだろう。王女の政略結婚を強引にブチ上げたのは彼だ。ただ、あれはあくまで城内と国内世論を味方につけるための政治戦略。〔ウィーンクルム〕との本格的な交渉は、時宜を見極めてから改めて行う算段だった。だから〔ブラッドヘルム〕へ、すでに王子二人がお忍びで来ていたことは完全に想定外だった。運が悪かったとも言えるが、把握できていなかったことは痛恨のミスだった。もちろんドリーブ個人の責任というわけではない。だが、もし問題が起こった場合、ドリーブは政治的責任を免れることはできないだろう。「まだ王子たちは帰ってはいないはずだ!今のうちに王女殿下をお部屋へお連れしろ!そもそもお前はこのような事態にならないためにディリアス公から命を受けているのだろう!?」ドリーブは眼を血走らせ、遅れて入室してき
【7】時間は少しだけ遡り......。リザレリスとエミルはこっそり部屋を抜け出した。泥棒のように人目の付かないルートを選んで、遠回りに応接室へと向かっていく。「あの、リザさま」「なんだよ」「そこまでなさらなくても......」「ふふん。これなら城の中をうろついていても変じゃないし、王女ってわからないだろ?」ドヤ顔を決め込むリザレリスは、侍女の格好をして白い頭巾まで被っていた。これからお掃除仕事でも始めるみたいに。「そのかわり王女殿下だとバレればルイーズ侍女長に何を言われるか......」エミルは不安を口にする。実はリザレリスの変装衣装は、エミルが風の速さで調達してきたものだった。無論、それがリザレリスの思いつきの命令だったことは言うまでもない。「そん時はおまえが怒られるまでだ」リザレリスはエミルにウインクする。「......お言葉ですが、王女殿下もこってり絞られることになろうかと」「じゃあ見つからないようにしようぜ」リザレリスは前向きだった。というか、彼女は遊び人のノリで楽しんでいた。そうこうしているうちに、目的となる部屋の扉が見えてきた。「リザさま。あの部屋です」エミルはリザレリスに小声で伝えながら、妙に思った。こういう場合、扉の前は警備の者やらで厳重になっているはずだ。なのに誰も立っていない。エミルとしては、部屋の前まで行って「やはり無理ですね」とリザレリスへ言うつもりだった。そうすれば、さすがのお転婆プリンセスも諦めるだろうと。「よっしゃ。こっそりのぞいてやるぞ」何も知らないリザレリスは悪戯少年のような顔でテンションを上げる。エミルは胸に不安を抱きつつも、リザレリスについていく。「エミル。今、人は来ていないよな?」空き巣のようにそそそっとドアの前まで来たリザレリスは、最終確認を行う。「はい。今ならば、大丈夫です」エミルの言葉を聞いてリザレリスは悪い顔で頷くと、ワクワクしながら覗き魔のようにそ〜っとドアを薄~く開けた。「あれ?」「どうなさいましたか?」「誰も、いなくね?」扉の間から見える狭い視界の範囲だったが、誰の姿も見当たらない。何より、話し声が聞こえなかった。「うーん。どういうことだろう」むむむっと考え込むリザレリスの傍で、内心エミルはほっとしていた。不幸中の幸いとはこのことか。ところが、そんな安堵は束
ディリアスに案内され、王女の自室前に王子ふたりが到着する。広い城内の移動はしばしの時間を要した。「王女殿下」ディリアスが部屋のドアをノックする。返事がない。何度かノックを繰り返す。一向に反応がない。いぶかしく思ったディリアスは、ドアノブに手をかけた。「申し訳ございません。少々お待ちくださいませ」と王子ふたりへ丁寧に言ってから、ディリアスはドアを開けて「失礼いたします」と入室した。しっかりとドアを閉めると、部屋の中を確認する。「人の気配がないな......」ディリアスは室内を見まわしながら、天蓋のカーテンに隠れたベッドの手前まで行く。「王女殿下。いらっしゃいますか?」ここでもやはり返事がなかった。仕方ないな、とディリアスはカーテンに手を伸ばした。「失礼いたします」シャッとカーテンを開ける。転瞬、ディリアスはギョッとする。なんとベッドの上に、さっきまで王女が着ていた衣服が散らばっていた。 「天真爛漫にもほどがありますよ......」思わず一人言がこぼれたディリアスは、仕方なく部屋の外へ引き返していった。「お眠りになっていらっしゃるのですかね。やはりご迷惑だったでしょうか」ディリアスが部屋から出てくるなり、フェリックスが言った。「念のため医務室へ行ったようです」ディリアスは恐縮しながら答える。「大変申し訳ございませんが、もう少々お待ちいただけますか?」「かまいませんよ」フェリックスは笑顔で了承した。弟のレイナードは、顔を背けて見えないようにため息をついた。「ありがとうございます」それからディリアスは部下に耳打ちする。速やかに王女殿下を探してお連れして来いと。
【6】ディリアスと王子たちの非公式の会談は、和やかに行われていた。といっても話をしていたのはディリアスとフェリックスで、レイナードは兄の隣で相槌を打っているだけだった。「私はもっと〔ブラッドヘルム〕との貿易は盛んにすべきだと思っています」兄のフェリックスは言った。「貿易だけではありません。文化交流もです。その点は父...陛下よりも、私は柔軟に考えています」「さようでございますか」ディリアスは、フェリックスと向かい合って話しながら、深く感心していた。彼がこちらにとって好意的だからというわけではない。彼が極めて優秀で聡明な人格を備えているからだ。若干十七歳にしてこの品格と知性と自信。それでいてジョークも言えるような柔軟さも持ち合わせている。彼ならば、人心を掌握し、国家をまとめることも難しいことではないのかもしれない。そう思わせる『資質と器』を感じさせる。父のファンドルス王(現国王)のような迫力こそないが、人の上に立つ者の素質があることは間違いない。「......しかし、リザレリス王女がご体調を崩されていらっしゃるとは、残念でした」「申し訳ございません」「ところで......」不意にフェリックスは妙な間を置く。